第一章 ともに暮らす家に起きていること

Y 反応の鈍さ

53−59

Z さまざまな意見

60−61


Y 反応の鈍さ

53.神の道具
 わたしたちは神の道具となるよう呼ばれている。しかし、この危機に立ち向かうために必要とされる文化を、わたしたちはいまだ有していない。

54.国際政治における反応の鈍さ
 国際政治における反応の鈍さは注目に値する。

 回勅は政治があまりにもテクノロジーと経済に屈服しているという。つまり、政治を動かしているのはテクノロジーと経済であり、そこで引用されるのが、次の文書である。ると言うことができる。

 アパレシーダ文書ー第五回ラテンアメリカ・カリブ司教協議会総会文書
 1968年のメデジン司教会議で採択された解放の神学の精神が、この回勅ラウダート・シの中に色濃く反映されている。解放の神学とは社会的抑圧や経済的貧困を聖書と神学の中心で捉え、それを克服していこうという動きである。


55.不十分な有害な消費習慣の転換
 一部の国や民衆のエコロジカルな意識は高まりつつあるが、有害な消費習慣の転換に至るには不十分である。


56.人間とその倫理の退廃
 環境の悪化と、人間とその倫理の退廃とが密接に関わっている。限りがあり、終わりがある世界という現実に気づく勇気が、娯楽によって絶えず奪われている。


57.戦争と金融権力
 資源の枯渇は新たな戦争を引き起こす。

58.環境改善の例
 人間が積極的に介入できる余地は沢山ある。

59.見せかけのエコロジー
 自己満足とのんきな無責任さを助長する、見せかけだけで表面的なエコロジーが広がりつつある。
   見ないでおこう、認めないでおこう、重要な決断を先延ばしにしよう、なかったことにしよう。

 生産と消費が最優先される産業構造において、環境や自然の汚染と破壊はやっかいな問題である。アメリカ大統領トランプ氏は産業を優先し、京都議定書から離脱していった。アメリカのみならず、全世界的に見ても地球保護の動きは緩慢に見える。やはり政治家にとって人々の暮らしを最優先せざるを得ないからである。なにをどう変えれば良いのか、わたしたちにはその文化がない、と教皇は言う。


Z さまざまな意見

60.両極端な意見
 その解決に向けて、両極端な意見が見られる。
   ・倫理的な配慮も、根本的な変革もなしに進歩神話をかたくなに主張し、技術的応用によって解決される。
   ・人的介入はすべて脅威であり、地球生態系には害でしかないのだから、地球上の人間の数を減らし、人的介入はすべて禁じる。


 はじめの技術至上主義については、この回勅の第3章で述べられている。
 次の意見は環境保護の極論と言える意見で、避妊や中絶、人口調節を含むもので、教会としてこの説を勿論、受け入れることはできない。しかし、この説の底に流れるディープエコロジーの説には耳を傾けるものがある。
 ディープエコロジーとは1973年にノルウェーの哲学者アルネ・ネスが示した、「あらゆる生命には価値があり、自然は人間が支配するものではなく、自然の本質的な価値を認める』という思想・哲学である。
 ディープエコロジーには以下の7つの特徴がある。
 1)生命体や人間を、個々バラバラな存在として捉えるのではなく、「相互連関的・全フィールド」(インテグラル)に織り込まれた結び目として捉える。
 2)原則として「生命圏平等主義」をとる。
 3)「多様性と共生の原理」
 4)「反階級の姿勢」
 5)「汚染と資源枯渇に対する戦い」
 6)「混乱ではなく、複雑性」
 7)「地方の自律と脱中心化」
 ディープエコロジーの思想は、ラウダート・シにも大きな影響を与えているように思われる。
                             (インターネット検索 より引用)


61.持続不可能な現実
 具体的な多くの議論に、教会は見解を提示する資格を有してはいません。
   「地球の諸地域を眺め渡せば、人間が神の期待を裏切ってきたことにすぐにきづかされます」(ヨハネ・パウロ2世)
 

 この問題の解決に関してはさまざまな考えがある。
 あくまでも科学的解決を至上とする考えがあるかと思えば、地球への干渉を止めるべきと言う自然至上主義もある。残念ながら教会はそれに対する応えをまだ持っていない。
 しかし、地球の状況は危機的である。