石巻・女川を訪ねる


 4年前のあの11年3.11以来、心のなかにずうっと引きずっているものがあった。それは、東日本大震災・大津波の地へ行かなければ、という思いが、今日のいままで心の整理がつかないまま4年も過ぎてしまったことである。
 あの大災害を宗教者としてどう理解したらよいのか、私の心の中で大きな葛藤があった。この宇宙万物を作られた神、ご自分の御子を犠牲にされるほど人間を愛されている神、なのにあの大災害、「なぜ」の問いが大きく心を塞いでくる。大災害とそれによる多くの人々の死がどう神の創造と愛と結びつくのか。
 また、すさまじい自然災害や人的災害(福島原発事故)に遭い、今なお、その悲しや苦しみに耐えながらが生きておられる被災者の方々を思うにつけ、信州の山奥で農業をし、土日には教会の仕事をし、毎日を平穏無事に暮らしていることに、一種のすまなさというか、申し訳なさを持ち続けていた。

 このたび、友人の長男が石巻市の復興関係の仕事をしていると聞き、その息子さんを頼りに友人と石巻市を訪れることにした。

松島で
 
東京から新幹線で二時間ほどで仙台につき、1ヶ月半前に全線開通した仙石線に乗り換えて松島海岸駅に向かう。
 ふと車内を見渡すと10代、20代の若者が大勢いる。なんだ、この若者たちは、と考えているうちに松島海岸駅につき、その若者たちはほとんどがこの駅で下車した。私たちも松島観光のため、ここで下車する。
 50年ほど昔、まだ学生の時に、釜石から北へ路線バスで民宿を渡り歩いて三陸海岸を旅したことがあるが、その時、松島や石巻・牡鹿半島は訪れていない。松島と石巻は初めての旅である。

 
松島湾は静かで穏やかな、どこまでも紺碧の海、松の木を冠のように抱く大小さまざまな島。これが松島なんだ、と思う反面、この海がすさまじいばかりの破壊力を持った凶暴な海に変わる、という想像を遙かに超えた現実の出来事を、この旅で知らされていくことになる。


石巻市で
石巻市は2010年の国勢調査で人口16万人、東日本大震災による死者行方不明者は3、971人もの犠牲者を出している。岩手、宮城、福島の被災3県の自治体として最大の犠牲者である。
 牡鹿(おしか)半島の付け根に位置するする石巻市は、牡鹿半島金華山沖130kmの海底で生じたマグニチュード9.0の地震とそれに伴う津波で、壊滅的な被害を受ける。
 
遠く海岸線を見渡せる日和山公園からの眺望である。
 海岸線までびっしりと建物が埋め尽くしていたであろう場所は、いまは居住禁止地域になり、原野と化し、雑草が一面を埋め尽くしている。被害の最も多かった地域である。


 震災直後の日和山からの写真である。(あるページから借用)
 上の写真と比べると、今は津波でかろうじて残った建物は、すべて撤去されていることがわかる。ただ、右下に見える寺とお墓は撤去されずに残っているが、間近に見た寺は屋根と柱だけになっており、使用されていないように見えた。


 
寺の隣にある住職の住居に住職が住んでおられるのかはわからないが、墓地には真新しい黒光りのする墓がたくさん見受けられる。犠牲者の方々のお墓なのだろう。
 ご冥福を祈る。


 
友人の息子さんは、石巻の人々の悲痛な思いの詰まった場所へ案内してくれた。今は居住禁止地区になっている海岸に近いある一角である。
 この場所をなんと称するのか聞くのを忘れてしまったが、ここに掲示されていた下の写真をご覧いただきたい。

 被災直後のすさまじいばかりの破壊された家々。目を背けたくなる情景である。それでも負けずに這い上がろうとして必死に描いたであろう一枚の看板。熱いものがこみ上げてくる看板である。
 今は荒涼とした原野の中にポツンとたたずんでいる、それだけに津波の脅威が心に迫ってくるそんな場所である。

 今もこの地で亡くなられた方々へ手向けられた花が、ひっそりと置かれていた。妻や夫、我が子、肉親兄弟なのか、友人知人なのか、この花一輪に込められた思いはずっしりと重いものがある。

 「がんばろう 石巻」の脇には、津波はこの高さだった、という標識がたっている。それによると、津波の高さは6.9mとある。すさまじい津波である。


 この海岸縁の居住禁止地域の境目、小高い丘の縁で盛り土工事が行われていた。詳しくはわからないが、防波堤を兼ねた道路なのかもしれない。



石巻市大川小学校で
  石巻市を訪れたら、どうしても行きたいところがあった。それは大川小学校である。私たちの目指す所とは逆の方向ではあるが、私のたっての願いで、大川小学校へ連れて行ってもらった。とうとうと流れる大河、北上川を下っていくと新北上大橋が見えてきた。写真の向こう奥、4kmのところが河口、海である。
 大地震から50分後、津波は北上川を遡上し、流木等が橋にひっかり壁となり、写真右手の大川地区に高さ10mの津波が襲いかかり、小学校および近辺の集落を全滅させた。

リアス式の入り組んだ海岸線、そこへ津波が押し寄せると狭い谷間に何倍もの高さになって遡上していくことになる。
 土地の人たちおよび小学校の教師たちは、大川地区は海から4kmも離れているから、津波は来ない、と確信していたようである。

 しかし、津波は北上川を遡上し、大川小とその周りを取り囲んでいる集落を飲み込み、多くの犠牲者を出してしまった。

 大川小学校は全校生徒108名、教職員13名、円形のしゃれた校舎をもつ小学校である。

 2011年3月11日、14時46分に起きた大地震の後、校庭に整列した児童の内、30名は迎えに来た保護者とともに帰り、78名が校庭に残った。教職員と生徒たちは15時35分過ぎに校庭からやや高いところへ移動中に津波に襲われ、78名中74名、教職員は11名中10名が死亡という、戦後の学校現場では類を見ない惨事となった。(西條准教授)

 地震から津波が来るまで50分もあったこと、小学校の裏には避難に格好の小山があったことなどを鑑みて、なぜこれほどの甚大な被害を出してしまったのか、多くの検証がなされているが、ここで「津波から命を守るために」ー大川小学校の教訓に学ぶQ&Aーを出された早稲田大学の西條准教授の説を引用させていただく。

 ・津波被害を経験したことがない地域に、想定外の巨大津波が来たこと。
 ・ハザードマップ(災害を想定して、被害が及ぶ範囲を予測した地図)で、避難所に指定されていたこと。
 ・津波に対する避難マニュアルが整備されておらず、避難訓練や保護者への引き渡し訓練がなされていなかったこと。

 10mを超える津波の凶暴な力は、想像を絶するものがある。上の写真および左の写真では、鉄筋コンクリート製の二階建ての校舎の壁がほとんど押し飛ばされている。

 二階校舎から体育館へ行く渡り廊下の柱が根元からへし折られている。
 この強大な水の力を見せつけられるにつけ、津波に襲われたときの児童たちの驚愕、恐怖、叫び、苦しみ、等々が胸を締め付けてくる。
 子供たち、教職員、地域の亡くなられた方々のご冥福を祈ります。

女川町で
 女川町は上の地図でもわかるように、牡鹿半島の東側の付け根にあり、深く入り込んだ湾の最奥部にある。牡鹿半島金華山沖で発生した巨大津波は、容赦なく女川を襲った。
 この3枚の写真は港のすぐそばの小高い丘の上に立つ病院から撮っているが、病院の一階まで水が来たというから、20mほどの津波ではなかったかと思われる。
 ほぼ1万人の人口の女川町で872人の死者・行方不明者を出している。死者の人口比では8.68と被災3県の自治体の中では最も高い比率である。次いで高いのが岩手県大槌町の8.37、石巻市は2.47である。

 このように多くの犠牲者を出したのは、女川の地形の故だろう。リアス式海岸の延長のような陸上部の谷間。そこを津波は駆け上っていった。
 津波をまともに食らった海岸からその奥地は、今はがれきも片付けられて何もない更地となっている。ここが賑わいを取り戻すのはいつのことだろうか。

 谷間の上部まで津波の爪痕が色濃く残っている。
 女川には女川原子力発電所がある。高台に建っているため津波の被害は受けずにすんだという。今は発電停止中であるが、これからどうなるのだろう。


 車で移動中、あちこちに仮設住宅を見かけた。今や仮設住宅にはお年寄りが多い、と聞く。
独居老人も多く、自死者も多いという。すべてに希望を失い、生きる喜びや生きがいを見失って自死の道を選んでしまう。この方々もまた震災の二重三重の犠牲者である。

 今回の旅行を通して、自分の今までの体験や経験が自然の前にはいかに小さく無力なのかを思い知らされ、今まで自分が持っていた価値観が大きく変えられるのを体験した。今はこれをもう少し深めてみたい。
 また、過去にとらわれることなく、明日に向かって力強く復興を生きている人々を見るにつけ、私の方が生きる活力というか、元気をもらって帰ってきた。被災地の皆さんに感謝である。