フランシスコとクリスマス
アシジのフランシスコは12世紀末にイタリア中部のアシジに生まれ、1209年に修道会を組織し、1226年に帰天、その2年後には聖人に列せられた、カトリック教会で今日ももっとも人気のある聖人である。
彼はキリストのように生きることを生涯追い求め、福音書を導き手として、とくに、質素で素朴な生き方と仲間に対する愛(兄弟愛)を根本に据えた生活を送った。 フランシスコにとってキリストの降誕祭(クリスマス)は、特別な思いがあった。彼は降誕祭を「幼子となられた神が、女の乳によって養われたことを思い出させる日」として「祝日中の祝日」(チェラノのトマス)と言い、貧しく生きていた彼もこの日ばかりは人間ばかりでなく、壁にラードを塗り(壁にまでごちそうを!)、牛やロバにはいつもの倍のえさをやり、空を飛ぶ小鳥には道に穀物を撒いてほしい、と語っている。 1223年12月24日、アシジとローマの中間点にあるグレッチオの山中の洞穴に、ベトレヘムの幼子誕生の場面を模して、家畜にえさをやるための木をくりぬいて作った飼い葉桶とロバと牛を配し、そばの岩を祭壇として村人と共にクリスマスミサが捧げられた。それは忘れられない感動的なミサであったという。 それ以降今日に至るまで、カトリック教会ではクリスマスが近ずくと、キリスト降誕のミニチュアが飾られる。 フランシスコの思いは、福音書に従ってキリストのように生きたい、ということであった。そのために、キリストをもっと具体的に感じたかったのである。キリストのように貧しく、キリストのように愛にあふれ、キリストのように神の子どもとして、父である神が創造されたものを愛し慈しもうとした。この思いが凝縮されていったのが聖痕印刻であろう。 フランシスコのキリストのように生きたいという願いは、グレッチオのクリスマスの翌年、9月14日の聖十字架賞賛の祝日の日に、イエスが十字架上にはりつけにされて受けた手足の釘の傷と、槍で貫かれた脇腹の傷をフランシスコも手足と脇腹に受けるという、聖痕印刻の奇跡が起こった。この聖痕は彼の持病である眼病と共に、彼を極限にまで苦しめることになる。 彼の眼病はついに彼を盲目にし、傷から来る痛みで身体がぼろぼろになりながらも、フランシスコは被造物すべてを兄弟姉妹と呼び、被造物と共に創造主である神をたたえようと歌った、あの有名な「太陽の賛歌」を作っていく。 フランシスコの一生を一言で言うなら、それはクリスマススピリット(クリスマスの心)ではないかと思う。クリスマスの心とは、ヨハネ福音書のあの箇所である。 「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた」(ヨハネ 1章14節) この「言は肉となって」という箇所は、キリスト教の教えの中でも現代人に説明するのが非常に難しい受肉の神秘といわれているものであるが、平たく言うと、「神は人間となって、私たちの中で生活された」ということである。神は抽象的な存在ではなく、また、私たち人間から遠く離れたところにいるのでもなく、具体的に私たちのすぐそばにおられるお方である。このことを自分の生き方によって人々に知らせていったのがフランシスコである。 13世紀のフランシスコの時代、すでに信仰が聖職者や修道者、王侯貴族や金持ちたちのものになり、無学で貧しい庶民は、信仰の世界からものけ者にされつつあった。信仰が特権階級化され、上品で美しい抽象的なものになっていったのも、洋の東西を問わずいつも同じである。 フランシスコは抽象化され、特権化されていった信仰を、具体的なみんなの信仰として取り戻そうとしていった。彼は福音を忠実に生きることによって、また、グレッチオの降誕祭や聖痕印刻によってイエス・キリストを具体的に体現化し、壁の中の閉鎖的な修道院ではなく、人々と共に住むことによって人々の中に神を見いだそうとしていった。 フランシスコは自分の修道会を、口先だけの説教者の集団や頭でっかちな学者の集団にする気はなかった。あくまでも貧しい小さなものの集団であろうとした。しかし、彼の病状の悪化から修道会の総長を辞したあと、修道会は早くもフランシスコの理想とは異なる方向へ進んでいくのである。 現代も信仰の世界をみると、言葉が言葉で終わっているような状況にあると思われる。言葉が人間となって、つまり、言葉が人間の中で具体化され、目に見えるものとなっていないのである。自分の生き方に裏付けされた言葉、あるいは、大地にしっかりと足を着けた言葉は人を感動させる力を持っている。頭だけで考え、頭からひねり出されてきた言葉は人の心を打たない。言葉は肉を取り、我々の間にとどまらなければならないのだ。 クリスマスは言葉だけの抽象的な世界ではない。もっと具体的な、目で見、手で触れることのできる、また、心と心がふれあえる世界である。だからこそ、宗教を越えて世界中の人々が祝うのである。 フランシスコの一生は、それを私たちに教えてくれる。 |